カテゴリー「MOOK」の7件の記事

2008.02.17

落語への招待

新人物往来社
図書館の新着案内を見ていたら、これが目に付いて予約しておいたのだが、まずまずの面白さだった。
小沢昭一さんと中野翠さんとの対談がなんといっても一番の面白さ。その中で、次の箇所などは、思わず膝を打って、我が意を得たりといったところ。

小沢 笑える講談もあるんですよ。神田松鯉なんて本当におかしかった。だけど、松鯉の講釈を聴いても年寄りは笑わないんです。僕が若かったころの話をしますとね、ある日本牧亭(東京・上野、閉鎖して池之端に縮小移転)に行くと、ジジイたちがパラパラと座っているなか、一人だけ高座に背を向けて座っている老人がいたんです。それで、講釈師がちょっと間違えると高座を振り返ってジロリと睨んだりする。ほかのジジィたちも、松鯉さんがいくらおかしい話をしても誰も笑わない。年をとって笑う力もないのかもしれない。あんなにおかしいのに、なんでこのジジイどもには受けないんだろうかと、若き日の僕は不思議に思ったものです。ところが、本牧亭の階段をゆっくり降りて帰路につこうとしている老人の一人が、「今日は笑ったなあ」と言う。なるほど、声に出すだけが笑いじやないんですよね。心の内側で笑っている。落語にも講談にもそういうことがあるわけですな。
中野 実は私、映画を見ているときも、あまり笑わないんです。声に出して笑うことはめったになくて頭の中で笑っている。アメリカ人なんか大声でゲラゲラ笑いますけれど。
小沢 でも、そういう声にならない笑いが本当の笑いなんじやないかと思ったりもするんです。テレビのお笑いは視聴者を入れてやっているらしいんだけれど、なんでこれがおかしいのかと思うくらいお若い方はよく笑いますよね。特にお嬢さん方はね。昔から箸が転んでも笑うと言いますから、そういうことなんでしようが。

私も、寄席などでもそんなに大きな声を出して笑う方ではなく、よく大きな声を出して笑う人などを見ると、そんなに可笑しいかなと思ったりするのだが、それらの人達の中には、本当に可笑しくって笑っている人達もいるのだろうけれど、どうも、そういう風に笑うことによって、自身の存在証明をやっている風でもあるのだ。あるいは、私はこの噺を、こんなに良く知っているんですよ、と証左しているかのようでもあるのだ。そういう人達は、往々にして胴間声で笑っている。
このMOOKには、駿菊がかなり深く関わっているようで、附録のCDも、駿菊のライブでの高座を収録してあるし、幾つかの文章も駿菊名義で書いてある。ここだけの噺という項は、駿菊のブログで馴染みの事柄が多く、私も以前はそのブログを読んでいたのだけれど、とにかく、“ここではこれ以上話せない”という秘密めかした書き方が多くって、イライラするので最近は全く読んでいない。また、古今亭流という項では、“志ん朝師匠が素晴らしいのは、寄席でかかわった僕ら噺家ひとりひとりに、志ん朝師匠とのエピソードを与えていることですね”と書いている。この事は、他の噺家の書いたものを読んでも、それは確かに窺がえる。たい平然り。馬石然り。しかし、反面、それが罪作りな事であったかもしれないという気もする。自分だけが志ん朝のことを思っている、自分のことだけを志ん朝は思っている、という錯覚を与えたという気もする。
最後の落語愛好家座談会という項では、四人の素人さんが座談を行なっているのだけれど、これはいらなかった。ただ、自分の知っている噺家をズラズラっと並べているだけだ。
しかし、出版社が歴史関係の書物を出しているところだけに、ミーハー的なところもなく、初めてこの種のMOOKを買おうかと思っている方には御誂え向きの一冊かもしれない。ただ、再録の項が二、三あるのが残念。

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2007.03.17

落語ファン倶楽部(vol.3)

笑芸人=白夜書房
今号での一番の読み物は、特集<そうだ、志ん朝を聴こう!>のなかの立川志の輔の項だった。あるいは、既に他のところで語ったり、書いたりしているのかもしれないが、己の落語人生を志ん朝に、そして談志に即して、赤裸々に語っている。志ん朝の落語は、見事な音楽になっていて誰もが演ってみたいと思わせるもので、志の輔も落研時代には、自身、天才的だったと回顧するほど三回テープを聴けば完璧にマスターし、そのコピー通りに学園祭などでやると大いに受けたらしい。しかし、卒業後、三宅裕司等と開いた落語会で「鰻の幇間」をやり見事に受けなくて、幇間の了見もわからずに演っても、所詮、コピーはコピーでしかないと悟り落語家にはならず就職する。そして、その後、談志落語に出会い、リズムとテンポの他に“考えて笑う”ということを知る。それをまたコピーしようとしたが、難解な譜面のため出来なかったらしい。志ん朝落語とは違う、落語を通じて己を語る談志落語の虜になったという。
それから後のことも種々と語っており、なかなか面白いのだが、それは直接手にとって戴くことにして、いまの志の輔落語に到達するまでの一言では言えないだろう苦労というものの一端を知ることができた。
同じ特集で、林家きくおが語っている、志ん朝がたまの寄席に出る時には前座も精鋭のAチームが編成されるというエピソードは、なるほどと思わせるエピソードだ。ちなみに、きくおは常にBチームだったそうだ。
あと面白いと思ったのは、<若手オールナイト討論 オレたち国宝一門>で、さん生、市馬、喬太郎が鼎談をしているのだが、その冒頭で、さん生が小さんの内弟子時代の一番の思い出として小三太と夜中にこっそりとソープに行ったら、“夢遊病者は寝てる間に塀を乗り越えていろんなところにいっちゃうんだけど、人は誘わない”と翌朝師匠に言われたと語っているのだが、このエピソードは、どこかで小ゑんも言っている。ま、実際、言われたのかもしれないけれど、どうも、よくできたエピソードというものは皆が使い回しているところがあるようだ。例えば、圓丈がよくマクラで使う、入門申込みを往復葉書で送ってきたというエピソードも上方の噺家も使っているのを時々聞いたりする。
今回も付録として付いていた三題噺のCD、今回は昇太が演じているのだが、一つの人情噺として楽しめた。

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2007.03.04

落語「通」検定

インプレスジャパン
このムック、読む前はさほど期待していなかったのですが、案に相違してなかなかの好著です。何が良いかといって、全編が噺家の論理で貫かれているからです。この本の執筆にも関わった林家ぼたんの言葉を借りれば、噺家の視点で書かれているからです。そして、もっと言えば、高所からの視点ではなく、前座、二つ目の視点で書かれていると言ってもいいかと思います。具体的にどこがとは指摘はできませんが、これまでの数多の類書を読んでこのムックを読めば、恐らく判ることと思います。
恥ずかしながら、これまで私は、ノリ屋の婆さんは海苔を商うとばかり思い込んでいたのですが、実は糊を商うということを、このムックを読んで初めて知りました。こういうことは御通家の方には当然の知識かもしれませんが、ほかにも「尻餅」についての臼は女性の、杵は男性の象徴であり、掛け声が次第にテンポが速くなるのは実に味わい深いものがあるというような、長年修行している噺家でなければ書くことのできないと思われることが所々に著されています。
柳家生ねん、このムックでも活躍していますが、シブヤらいぶ館でも大活躍ですよね。ネタ帳にネタを書いている写真が載っていますから、きっと立前座なのでしょうね。寄席でもよく見掛けます。ただ、メクリを時々間違えて出します。一緒に写っている女性の方はなんという名でしょうか?
このムック、総じて結構なものだと思うのですが、ただ、題名は如何なものかと思うのです。検定とは相反する言葉ではないでしょうか。どうも私はスキルアップとかいう言葉にも馴染めませんもので。
それから、昨日黒門亭で見た翁家さん馬の南京玉簾も紹介されているのですが、この頁は林家ぼたんの執筆なのでしょうか?

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2006.07.11

落語ファン倶楽部(vol.2)

笑芸人=白夜書房
この号は、あまり見るべきところはない。高田文夫に関する記事が目立つ。そのなかで、良かったなと思ったのは、志ん朝、吉朝の共に物故者の記事。
志ん朝の元マネージャー前島さんが語った中で印象に残ったのは、“「前さん、やっぱ、滑稽噺を突き詰めていきたいな」とも言ってました。”という志ん朝の言葉。志ん朝の突き詰めた滑稽噺を聴いてみたかった。それと、よく言われる志ん朝のドイツ好き。これに関して、前島さんは、志ん朝が“一コース三ヶ月の講座を二回行って、完全にマスター”したと言っているのだが、志ん駒なんかは、違うんじゃないのみたいなことをどこかで言ってたように思ったのだが。
亡き吉朝について、弟子たちが各々思い出を語っている。その中で、最後のひと月あまり、ほとんど毎日を師匠と過ごしたという吉坊は、棺桶の中に入れるものを決めるとき、眼鏡の次に、奥さんから“吉坊”と言われたらしい。弟子冥利につきますねぇ。
思いのほか面白かったのは、付録のCD。これは、高田文夫から出されたファン倶楽部、カテキン、革の財布の三題噺をSWAのメンバーでネタを創り、それを白鳥が高座で演じたもの。これが、ちょっとした人情噺風になっている。

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2006.04.20

文藝別冊 総特集・古今亭志ん生

河出書房新社
内容の大半は既出のものだが、当方にとっては、初めて読むものがほとんど。
なかでも印象に残ったのは、志ん駒へのインタビュー、先代金原亭馬生と小島貞二の対談、円生、宇野信夫、坊野寿山の鼎談。
目次で志ん駒へのインタビューの項の見出しに「世の中、君の思うとおりにはいかないよ」とあるから、めずらしく志ん生が人生訓のようなものを垂れたのかしらと思ったら、そうではなく、志ん生が粗相をしてその後始末をした志ん駒に小遣いをやったので、志ん駒がまた小遣い欲しさに“師匠、たまにはウンコもらしてください”と言ったら、“世の中…”と言ったとか。また、面白いのは、パジャマの件も、志ん駒の発言と、小沢昭一・矢野誠一の対談での矢野の発言は微妙に違う。これは、誰が嘘を言ってるとかではなく、それぞれが感じたものがそうだったのだろう。
小島貞二は、かなり辛辣なことを言ったり、微妙なことを聞いたりしている。ちょっと、嫌な感じがするほどに。それに対して、馬生も言い難そうにしながらも、かなり思いきったことも言っている。次の志ん生を継ぐ話とか、志ん生という存在は他人にとっては喜劇であっても、家族(少なくとも馬生にとって)は、悲劇であるとか。また、一方で、志ん生から、“おれは碁を知らねえから『笠碁』も『碁泥』もできない。仕方がないから『雨の将棋』でやってるけど、この噺は将棋じゃだめなんだ。だから碁を習え”と言われたという話は、この話を知っただけでもこの本を読んでよかったと思っている。
しかし、なかでも一番笑ったのは、鼎談における円生の次の発言。

円生 日本橋に「日本、酒の店」というのがあって、銘酒の樽がずらりと三十ばかり並んでる。お膳があって、しじみ汁とこぶの佃煮のようなおつまみが五品ほど出ていて、これ無料なんです。つまり一本飲んだくらいじゃ出られない仕掛けンなってる。その店へ志ん生が弁当を持つてはいって「オマンマだけ食って出てこようと思ったら怒られた」 って(一同爆笑)。

当方も一緒になって大笑いしました。しかし、円生も、あちこちでかなり辛辣なことを言っているなぁ。
この本で、馬生はいろいろ言ってはいるけれど、『おしまいの噺』という本のなかにある、まった倶楽部の看板を玄関に掲げている馬生と志ん生二人の背中を写した写真がすべてを物語っているという気がします。

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2006.03.25

きく知る落語

JTBパブリッシング
まぁ、やはり大筋では既出の『落語ワンダーランド』『みんなの落語』と相似。その原因はそのいずれにも瀧口雅仁とかいう人が関わっているからだろう。でも、どうしてこの手の本には必ず着物を着て寄席に行こうとかいう特集が組まれるのだろうか?
ただ、このMOOKは、さん喬と喬太郎の師弟対談、そして、上方落語の特集記事、この二つは素晴らしかった。読み応え充分でした。特に、次のような箇所のさん喬の言葉は芸談として記憶に残るものです。

さん喬 自分の中では「棒鱈」をやって一つ上へいけて、「井戸の茶碗」をやって、また一つというものですね。それに「井戸の茶碗」は志ん朝師匠のを聴いて、噺家になりたいと思ったきっかけの噺ですから。ある時、さん喬の「井戸の茶碗」はいいけど、女が出過ぎるって言われたことがあって、それで「勝った!」と思ったの。だって、あすこの娘はひと言しかいわないんだから。

一昨年、さん喬の「井戸の茶碗」を朝日名人会で聴いて涙が止まりませんでした。この話を聞くとそれも頷けます。

*蛇足ながら、42頁の一段目のさん喬の発言のなかの“うん。うちの師匠(八代目桂文楽)だったり”とあるのは誤植でしょうね。
*柳家三太楼が師匠と喧嘩して破門されたとのことだが、真偽の程はどうなんだろう?

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2006.03.09

みんなの落語

学研
昨年一月に発行された『落語ワンダーランド』になんとなく似てるな、と思った。
表紙は色は違うけれど、雰囲気がなんとなく同じような感じだし、
タイトルの書体も仔細に見れば違うけれど、パット見た感じはソックリ。
中身も、その構成からしてソックリ。
入門者用というコンセプトでやると、どうしてもそうなっちゃうのだろうか?
そして、柳家権太楼一門のコーナーでの写真は、これも昨年の『リンカラン』という雑誌の特集に使用されてたものと似たような写真が並んでいる。記事も同じような感じ。
個人的には、充実度は『落語ワンダーランド』に軍配をあげたい。
ただ、堀井憲一郎の項で言及されている入船亭扇辰の啖呵、聞いてみたかった。
また、落語のあらすじを解説しているコーナーで虎&龍のマークがあるのがなんとなく可笑しい。

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