落語への招待
新人物往来社
図書館の新着案内を見ていたら、これが目に付いて予約しておいたのだが、まずまずの面白さだった。
小沢昭一さんと中野翠さんとの対談がなんといっても一番の面白さ。その中で、次の箇所などは、思わず膝を打って、我が意を得たりといったところ。
小沢 笑える講談もあるんですよ。神田松鯉なんて本当におかしかった。だけど、松鯉の講釈を聴いても年寄りは笑わないんです。僕が若かったころの話をしますとね、ある日本牧亭(東京・上野、閉鎖して池之端に縮小移転)に行くと、ジジイたちがパラパラと座っているなか、一人だけ高座に背を向けて座っている老人がいたんです。それで、講釈師がちょっと間違えると高座を振り返ってジロリと睨んだりする。ほかのジジィたちも、松鯉さんがいくらおかしい話をしても誰も笑わない。年をとって笑う力もないのかもしれない。あんなにおかしいのに、なんでこのジジイどもには受けないんだろうかと、若き日の僕は不思議に思ったものです。ところが、本牧亭の階段をゆっくり降りて帰路につこうとしている老人の一人が、「今日は笑ったなあ」と言う。なるほど、声に出すだけが笑いじやないんですよね。心の内側で笑っている。落語にも講談にもそういうことがあるわけですな。
中野 実は私、映画を見ているときも、あまり笑わないんです。声に出して笑うことはめったになくて頭の中で笑っている。アメリカ人なんか大声でゲラゲラ笑いますけれど。
小沢 でも、そういう声にならない笑いが本当の笑いなんじやないかと思ったりもするんです。テレビのお笑いは視聴者を入れてやっているらしいんだけれど、なんでこれがおかしいのかと思うくらいお若い方はよく笑いますよね。特にお嬢さん方はね。昔から箸が転んでも笑うと言いますから、そういうことなんでしようが。
私も、寄席などでもそんなに大きな声を出して笑う方ではなく、よく大きな声を出して笑う人などを見ると、そんなに可笑しいかなと思ったりするのだが、それらの人達の中には、本当に可笑しくって笑っている人達もいるのだろうけれど、どうも、そういう風に笑うことによって、自身の存在証明をやっている風でもあるのだ。あるいは、私はこの噺を、こんなに良く知っているんですよ、と証左しているかのようでもあるのだ。そういう人達は、往々にして胴間声で笑っている。
このMOOKには、駿菊がかなり深く関わっているようで、附録のCDも、駿菊のライブでの高座を収録してあるし、幾つかの文章も駿菊名義で書いてある。ここだけの噺という項は、駿菊のブログで馴染みの事柄が多く、私も以前はそのブログを読んでいたのだけれど、とにかく、“ここではこれ以上話せない”という秘密めかした書き方が多くって、イライラするので最近は全く読んでいない。また、古今亭流という項では、“志ん朝師匠が素晴らしいのは、寄席でかかわった僕ら噺家ひとりひとりに、志ん朝師匠とのエピソードを与えていることですね”と書いている。この事は、他の噺家の書いたものを読んでも、それは確かに窺がえる。たい平然り。馬石然り。しかし、反面、それが罪作りな事であったかもしれないという気もする。自分だけが志ん朝のことを思っている、自分のことだけを志ん朝は思っている、という錯覚を与えたという気もする。
最後の落語愛好家座談会という項では、四人の素人さんが座談を行なっているのだけれど、これはいらなかった。ただ、自分の知っている噺家をズラズラっと並べているだけだ。
しかし、出版社が歴史関係の書物を出しているところだけに、ミーハー的なところもなく、初めてこの種のMOOKを買おうかと思っている方には御誂え向きの一冊かもしれない。ただ、再録の項が二、三あるのが残念。
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