昭和の爆笑王 三遊亭歌笑
岡本和明=新潮社
本書の“あとがき”に、“本書に書かれた話は、公園で出会った見城との話以外は、ある程度の誇張はあるが、ほとんどが事実である”とある。だから、見城との会話で、当時の時代背景、あるいは落語界の状況などを説明しているのだが、やはり幾許かの違和感は否めない。しかも、見城との会話以外でも、会話によって状況を説明している部分があるのだが、このあたりもリアリティが感じられない。たとえ、語られていることが事実であっても、そういう口調で会話したであろうかとの思いがある。例えば、歌笑と弟弟子の金太郎(小南)との会話であるが、確かに歌笑が兄弟子であるから、金太郎に対して兄弟子であるような口調で話すだろうかもしれない、しかし、本書で書かれているように、自身の容貌のために幼少の頃から虐げられてきた歌笑は、たとえ自分が身分が上に位置する立場であろうとも、遠慮深げな言葉遣いをしたのではなかろうかと想像するのだが…。
歌笑が亡くなって半世紀以上経っているのだから、もう判らないことがあるのかもしれない。また、未だ書けない事があるのかもしれない。しかし、例えば、歌笑の“咄家としての人生に於いて重要な分岐点”となった人形町末広での出演の、その明確な日時などは明記して欲しかった。また例えば、歌笑の真打昇進興行のときに、“歌笑……これ迄随分つらく当たってきたが勘弁してくれ……”と謝ったという咄家の、その日の歌笑の日記に記されていたというその名前は知りたいとも思う。
さらに欲を言えば、紙幅の関係もあるかもしれないが、人気沸騰した歌笑の当時の状況をもっと知りたいと思う。歌笑が人気絶頂の頃の記述の量に物足りなさを覚えるのである。タイトルにあるように”昭和の爆笑王”といわれる所以をもっと理解するためにも。
しかしながら、本書によって、歌笑の生い立ちを詳しく知ることができた。そして、戦後、歌笑が台頭してきた状況も知ることができた。それから、権太楼、歌笑、痴楽、三平という落語界のもう一つの流れも理解することができた。これまであまり言及されてこなかった咄家にスポットライトをあてた本書は、この点において貴重かもしれない。
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