岡本和明=アスペクト
実に雑な作りの本である。誤植というより、校正ミスが多いのである。印刷は天下の大日本印刷がやっているのだが、その責は編集者、著者(と言えるかどうか?)にあると思う。一番酷い所は次の箇所。
今は父も馬生も志ん朝も死んじゃったけど、私は志ん朝が志ん生を襲名するまで死ねないって思ってるの。これは母との約束だったから。(39頁)
この美濃部美津子さんが語った項は、1994年3月の日付が付いているのだから、志ん朝が死んでいるなんてありえない。編集者が今の時点で、その部分だけを読んで志ん朝も加えたのではないだろうか?オリジナルの原稿に入っていたとは思えないし。何故、こんなことになるのかどう考えても判らない。
次の箇所も笑える。「お直し」が「お色直し」となっている。
この噺を単に“廓噺”と思って演じると、演じきるのはなかなかむずかしい。この『お色直し』という噺は“人情噺”であり、志ん生も人情噺として演じている。(221頁)
次は単純なミス。句点となるべきところが読点になっている。
“羅生門河岸”の名前の由来は、源頼光の家来の一人、渡辺綱が羅生門の鬼の片腕を切り落としたという故事にもとづいている、
こうした場所で働くのは小見世を食いつめたような女郎しかいない。そのため、女郎の年齢も三十を過ぎた女がほとんどで、中には五十を越えた女郎もいたというから、どんな場所かおおよその見当はつく。(224頁)
次はよく意味が判らないのだが、“糸の兄”は、“糸の先”の間違いではなかろうか?恐らく、OCRの判読エラーではないのだろうか?
その金魚屋でたまに金魚を買ってきて、釣りをするんですよ。師匠の家に瓢箪池があったね、師匠が、
「釣りをやるぞっ」
って言うと、
「へい」
つて、僕が糸の兄にオマンマ粒をくっつけてね、金魚のいるところへそれを持っていくんですよ。金魚だって目の前に食い物がくるんだから、パクって食いつく。で、ウキが沈むと師匠が、
「釣れたっ、釣れたっ」(108頁)
これは、私が“鉄の輪まわし”という言葉を知らないだけだと思うのだが、こうもミスが多いとあるいはこれもミスなのかなと勘ぐってしまう。“鉄の輪まわし”ってどういう意味なのだろうか。
業平へ行った時は、オヤジさんは本当に失業状態でしたから。どこも使ってくれなくなっちやつて、鉄の輪まわしに行ってみたけど、体がなまっちゃってるから駄目だって。(48頁)
まぁ、以上のようにこれだけ(他にもあり)誤植、校正ミスが頻出すると読む気がしなくなる。内容も、『これが志ん生だ!』の月報の再録である。初出の時点で、馬生なぞは、これまでと同じことを何度も尋ねられてもうウンザリしている様子がありありと窺がえる。弟子たちも、尋ねられてやむなく答えるのだろうが、何度も同じことを聞かれているうちに、その答えも微妙にその内容が違ってくる。それは弟子たちの責任ではないだろう。ハイエナのようにもっと違う話はないか、もっと面白い話はないか、と食い付いて離れない人達にかかればそうなるのだろう。
しかし、あえて善意に解せば、落語ファンなるものも新陳代謝していくのだから、そのたびに新しい書籍が出てくるのを全て否定することは出来ない。私も、林家こん平の話などは始めて読むし、楽しく読めた。また、志ん生に女性の弟子がいたことも初めて知った。しかし、それにしてもである。
なお、この本、付録としてCDが付いている。「小咄」「お直し」「疝気の虫」。「疝気の虫」は、ポニーキャニオンの『名演大全集』と同じもの。「お直し」は収録日を明記していないが病後録音のものと思われ、これも既出のものだろう。唯一、「小咄」が初出で、著者はお為ごかしにこれを読者へのプレゼントだと言っている。だいたい、『志ん生、語る。』と銘打っているけれど、志ん生が語っているのは、僅か6頁。なんだか、その初出の10分程の「小咄」を聴くためにだけ大枚2000円を読者は払うような感じだ。
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